相模原市の知的障害者施設で起きた殺傷事件から2か月がたった。これを受けて今月21日、全国の知的障害者およそ1000人が参加し、犠牲者を追悼する集会が開かれた。
参加者には、「障害者である前に一人の人間だ」、「地域社会での自立生活を営む選択肢を確保すべき」といった声が上がった。ニュースでこれだけを聞くと、筆者も「全くその通りだ!」と納得していたのだが、聞いただけで納得することと、自分が実際に経験してみるのでは、全く違う現実が見えてくるということが実感した出来事が最近あった。
それは、筆者の住んでいる地域が主催する、外国人のためのフランス語教室での話だ。
筆者が数年前からこのフランス語教室に通うことにしたのは、フランス語のレベルを上げることが、自分の生活の快適さに直接関係すると考えたからだ。週に2時間程度のレッスンだし、先生も語学の専門家ではなく、定年を迎えた地域のボランティアだが、それでも年配のフランス人から学べる事は非常に多く、何よりいろんな国の外国人と一緒にフランス語を学べることが楽しい。
みんな自分と同じようにフランス生活につまづいたり、フランス人の言動に戸惑ったりしているんだと知って、レッスンに通うたびに「私もみんなに負けないように頑張ろう」と勇気をもらえる。
だから筆者は、このフランス語教室を毎週熱心に通い、授業中もできるだけたくさん発言して、最大限に活用している。自己判断だが、「やる気のある日本人」として、先生にも周りの外国人にも認識されていたように思う。
ところが、そこに先週、知的障がい者のモロッコ人女性が入ってきた。
学ぶ気満々で教室に入った筆者は、正直驚いた。筆者はこれまで、あまり知的障がい者と話をしたことがなく、自分の周りに障がいを抱えている人もいない。なので、彼女に会って数秒は彼女が知的障がい者だということに気が付かなかった。
周りの外国人と、「元気にしてた?」「バカンスはどこに行ったの?」なんて雑談をしている時に、急にそのモロッコ人女性が大声をあげる。
あー、わたし、バロセロナ知ってるー!!!
どうやら私たちが「バカンスでバロセロナに行った」という話を聞いて、こう発言したらしい。急に大声を上げられたことと、急に会話に入ってこられたことに、心底びっくりした。
すると先生が彼女について説明し始めた。
「彼女は未熟児で生まれて、いろんな機能が発達していない状態で生まれたから発音や思考が遅れたり、耳が聞こえなかったりします。彼女の両親と僕が友達で、両親の仕事の都合でフランスに来ることになり、彼女はフランス語を学ぶ必要がでてきたので、今日はここに呼びました。」
その後、授業を開始するのだが、やはりいちいち彼女の発言で流れが止まってしまう。この様子を船に例えると、授業参加者全員で船をある方向へ漕いでいるのに、彼女の存在という大きな波のせいで方向を見失うような感じだ。とにかく、みんなが話している最中に大きな声で「あぁー!」と叫びだしたり、流れを全く無視して「私辞書で調べるわー♪」と言ったりして、周りの人をイラつかせているように感じた。
正直、筆者も心の中で相当イラついた。頭の中では、「これは本人が悪いのではなくて、脳に障害があるのだからしょうがないんだ」と理解はしているのだが、彼女が発言する度に反射神経のように、イラッとする。
先週までは、こんなに流れをつっかえさせるような存在がいなくて、みんなで楽しく学べたのに…。なんで、この人が入ってくるの?ここは障がい者のためのクラスじゃないでしょう?あなたのせいで、私たちの学ぶ速度が遅くなるのよ?あなたは障がい者クラスで学べばいいんじゃない?本当、障がい者なんていなければいいのに…。
…と、憎悪が胸の中いっぱいに広がった。
すると今度、筆者を襲ってきた感情は、自己嫌悪だった。
ひょっとしたら、自分が生む子どもが未熟児で、彼女のように脳に障害があって生まれてくるかもしれないし、自分だって、障害者になっていた可能性だってあった。彼女の親だって、きっと「娘に地域の普通の外国人と触れ合ってほしい」、「周りと同じように社会の人とふれあってほしい」という切なる願いがあって、フランス語教室に行かせたのだろう。そんな彼女の家族の気持ちを考えると、自分の感じたことがとても汚くて、いやらしくて、自分で自分が本当に嫌になった。
筆者のような考え方をする人間がいるから、障がい者に対する偏見や差別がなくならないのだと思う。
相模原市の犠牲者を追悼する集会で、ある参加者はこう言っていた。
「障害者はみんなうまく言葉にできなくても心や頭の中ではちゃんと考えています。このことを社会の人たちにわかってほしいです」
全く、その通りだ。フランス語教室に来たモロッコ人女性も、きちんと頭で考えていた。フランス語の知識では、私が知らなかったことを知っていたりして驚かされたし、フランス語を学びたいと思っている気持ちはみんな一緒だ。良い時間を過ごしたいという気持ちだって共通している。
しかし、現実問題、健常者側が障がい者の持っている世界や思考回路を理解するには相当の時間がかかるし、彼女が授業の流れを止めてしまうのも事実だ。
そして筆者も、つっかえつっかえペースの遅い授業に週に2時間費やすことができるほど、時間に余裕のある生活をしていない。それなら他の授業に行って、同じ時間でより多くのことを学べびたいし、他に時間を有効活用したいと思う。健常者は他に選択肢があるから、「他」を選ぶ。
だから、障がい者を地域で受け入れるのは難しいのだと思う。
結局のところ、健常者も仕事や日々のしなくてはいけないことに追われていて、障がい者と交流するような時間的、精神的余裕がない。自分の欲求と、障がい者の欲求が拮抗したときに、自分の欲求が最大限に満たされる方の選択をする人がほとんどなのではないか。
障がい者を本気で地域に受け入れるというのは、健常者側に(例えば定年を迎えた人のように)心と時間の余裕がないとできないし、「100%障がい者のために動こう」という心構えがないとできないのではないかと思う。
「障がい者が地域社会での自立生活を営む選択肢を確保すべき」
それは、本当にその通りだと思う。しかし、現実問題としては、かなり難しい。ニュースを見聞きして、頭の中で考えることと、実際に自分が経験してみて感じることは全く違うこともあるんだなと、モロッコ人女性に会ってみて思った。
「障がい者はいらない」…そんな気持ちがあなたに全くないと本当に言えますか?
障がい者を地域で受け入れるためには、何が必要だと思いますか。コメント欄で教えてください。