ホームジャパン【生きづらい日本社会】なぜ、日本人の“おせっかい”は問題なのか?

【生きづらい日本社会】なぜ、日本人の“おせっかい”は問題なのか?

海外に住む日本人とよくこんな話をする。

「日本に帰りたいなーって思うけど、日本人同士の人間関係を考えるとめんどくさいなーって思っちゃうよね。」

日本とは対照的な、個人主義、自由主義といったドライなしくみを持つ欧米社会で長く生きていると、日本の集団主義社会はきついなぁと感じてしまう人もいる。もちろん、個人主義社会には集団主義社会にはない生き辛さも存在するのだが、日本では一人だけ、別の行動を取ることが許されず、絶えず行動を周囲の皆と合わせなければいけない息苦しい雰囲気が存在すると思う。

例えば私は結婚して4年になるが子どもがいない。フランスでは「子どもはいるの?」と聞かれることはあっても、それ以上何か聞かれることはまずないが、日本に帰国すると親戚や友人、ちょっと寄ったすし屋の大将にまで「子どもはいないの?」、「何でつくらないの?」、「ひょっとしてつくれないの?」と子どもがいない理由をあれこれ聞かれることが多い。

それにこれは結婚して海外に住む日本人は大抵の人が言われていることだと思うが、「(海外に行くことを)よく親御さんが承諾したよね」、「お母さん、寂しがっているんじゃない?」と言われる。

集団主義社会では相手のプライベートに関わる質問を興味本位で聞いてくる人が多いように思う。30歳で結婚していない人に対して「結婚しないの?」、「いい人いないの?」と追及するのもしかり、子どもがいる家庭でも「2人目はいつつくるの?」、「一人っ子じゃかわいそうだから2人目は必要よね」と言うのもまたしかりだ。

もちろんおせっかいな人というのは日本に限らず世界中どこにだっている。しかし、こういったおせっかいな質問をする人は個人主義社会よりも集団主義社会の日本に多いように思う。では、なぜ日本ではこのようなことを言ってくるのだろうか。

私の例で言うと、「なぜ子どもいないの?」と聞いてくる人のほとんどが悪意があるわけではなく“不思議そう”な顔をして聞いてくることが多い。つまり、「結婚して1年ぐらいで子どもをつくるカップルが多いのになぜあなたたちはそうじゃないの?」と聞きたいのではないかと思う。海外在住者に対して「よく親御さんが承諾したよね」と言うのも、親は反対して当然だという考え方からくるものだし、30歳で結婚していない人に対しては「もう30なのだから結婚して当たり前だ」という押し付けがあるような気がしてならない。

つまり、日本の社会ではスタンダードの人生というものがあって、それに少しでも外れてしまうとこのようなおせっかいな質問を浴びせられるのだ。おそらく日本では、30歳までに結婚するのが普通、結婚して数年で子どもができるのが普通、(最近は少し変わってきたかもしれないが)子どもは2人目を欲しいと思うのが普通だと考える人が多いのではないだろうか。しかし、当然のことながら「一生結婚なんてしたくない」と思う人もいれば、「結婚はしたけど子どもは欲しくない」と思う人もいるし、「一人だけを大切に育てていきたい」と考える人もいる。そもそも人の生き方にスタンダードなんてないし、仮に人生のスタンダードなんてものがあっても、それは人を窮屈にさせてしまうだけだ。

そして、人とは違う考え方や行動をとる人は社会でなかなか理解されない。いくら自分の考えを説明したところで、「でも~と考えるのが普通でしょ?」と切り返される。日本社会ではみんなと同じ行動をとらなくてはいけない、というプレッシャーが必ずしも存在しているのだ。みんながスタンダードを期待されていることが日本社会の生き辛さに通じているのではないだろうか。自分の人生なのだから、どう生きようが本人の自由のはずだ。周りに合わせなきゃいけないと思い、いつも周りの反応ばかりを気にして生きるよりも、自分らしく自分で良いと思った人生を歩みたいと誰もが本当は思っているはずだ。それなのに、日本では「普通」という曖昧なスタンダードが「おせっかい」となり、普通に当てはまらない人を苦しめている。それならいっそのこと「普通」なんてものはなくなってしまえばいいと思うことも少なくない。

 

しかし、そうは言っても集団主義社会の日本で「普通」が求められるからこそ、日本が秩序的で治安が良く、連帯感のある社会であることは間違いない。みんなが一見して同じように見える社会というのは、そこに住む人に安心感を生むような気がする。例えば恋愛1つ挙げても、結婚生活を送っているのに籍を入れてない人がいたり、形式上“配偶者”と認められた結婚(PACS)をする人もいる多様なフランス社会と比べると、プロポーズすればみんな籍を入れる日本は単純でわかりやすくて、何とも言えない安心感があるように思う。「普通」という言葉がなくなって、日本社会がますます多様性を増していけば、ある意味で日本らしさが失われてしまうのかもしれない。

 

しかし、それでも日本ももう少しゆるくなってもいいのではないか、と思う。 トリアンディスによれば、集団主義者は「みんなの考え方、感じ方、行動が同じであること」を望むというが、大衆の考えがみな同じになるなんてことは不可能だし、それは幻想にすぎない。集団主義社会で一見みんな同じように見えるかもしれないが、人が自分と同じように考えると推し量るのは間違っていると思う。個人主義社会でも集団主義社会でも、突き詰めて相手と話をし、蓋を開ければどの国でもみんなそれぞれ違った考え方をしているものだ。昔に比べたら「異」に寛容な社会へと変化してきた日本だが、普通じゃない考え方を認める人が増えれば、日本はもっと住みやすい国になれるのではないだろうか。

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