外国語を学ぶと、日本語にはない表現や言葉を知ることができる。反対に、日本では多用しているのに他の言語では使用されない言葉がある。そのなかのひとつが、自分の国に好意的な人かどうかをカテゴリわけする「親○」「反○」という言葉だ。
筆者も日本にいたころは当たり前のように使っていたが、今、日本のメディアなどで頻繁に登場してくるこの言葉を聞くと、ハッとして、小さなショックを受けてしまう。「親日」という言葉が存在することにもビックリだが、その使われ方や使われる頻度にもビックリだ。
「親日」という言葉は、例えば来日してきた海外スターを指して、「レディーガガは親日家だ」とか、国を指して「台湾は親日国だ」といった使い方をされることが多い。ウィキペディアの定義によると、親日とは、日本語では、日本や日本人、日本文化に好意的な言動を示す外国人を指す言葉である。
しかし、この定義には無理がある。中国や韓国など、日本と歴史認識のくい違いや領土問題のある国の政治家の見解や政治的戦略を区別する意味で「親日」「反日」と分けるのは理解できるが、海外セレブや国全体を「親日」と「反日」と区別するには適切な表現ではない。意味が派生しすぎて何を指しているのかわからないし、何をもって”親日家”と呼べるかという線引きもあやふやすぎるからだ。
国や人間を、「親日」と「反日」にカテゴリ分けするのには2つの問題点がある。
1. どちらにも当てはまらない人が多い
筆者はフランス人と結婚をし、フランス暮らし5年、毎日フランス料理を食べ、毎日フランス語を話して生活している。フランスの文化や風習、フランス人の気質などもそれなりに理解しているつもりだし、フランス人の前ではもちろん「親仏的」な発言を心がけている。日本に好意的な言動を示す外国人が親日であるなら、筆者は立派な「親仏」にカテゴライズされるのではないかと思う。
しかし、「あなたは親仏家ですか?」と聞かれたら、素直に「はい」とは頷けない。フランスの抱える問題点や相容れないフランス人の国民性、フランス政府に改善してほしい点などが頭に浮かび、とてもでないが両手を挙げて「フランス万歳!」とは言えない心境になるからである。だから、自分では「親仏」であり、「反仏」でもあると思っている。
ここまでフランスにどっぷりと浸かっている筆者がそうなのだから、日本と中国の見分けもつかないような外国人に「あなたは親日家ですか?」と聞いたところで、大した答えは期待できない。仮に「好きだ」と言われても、それは単なる印象論であり、ステレオタイプにすぎないからだ。
日本のテレビでは「親日家な外国人」を取り上げるのが大好きだが、実際に世界の人に親日家かどうかをインタビューしてまわると、日本に対して、「好き」、「嫌い」という強い特別な感情をもっている人のほうが珍しい。ほとんどの人が「どちらでもない」と答えるのではないだろうか。ほとんどの人が「好きでも嫌いでもない」と答えるだろう質問を、無理やりにでも2つに分けるという手法に一体何の意味があるだろうか。
2. 親日家=いい人という幻想
国や人を「親日」、「反日」とカテゴライズすると、どうしても「親日家は日本思いのいい人」で、日本に対して否定的なことを言う反日は「嫌なやつ」という発想になってしまうが、これもまた単純すぎる。
例えば、2人の外国人に日本についてどう思うかを尋ねてみたとする。
外人A
「日本大好き!僕は昔から日本のマンガとかアニメが好きだし、侍もかっこいい!実際に日本に行ってみたら、フランスにはないウォシュレットやカラオケ、何よりサービスの良さに感動しました!日本最高!」
外人B
「元はアニメから日本に興味を持ち始めたんだけど、実際に生活してみると、日本社会も良いところだけではないというのがわかったよ。みんな笑顔で働いて一見すると平和なんだけど、その裏で過労死や社会のプレッシャーが強いことがわかって、平和な日本社会の裏には労働者の苦労があるのを知った。だから、日本の社会の改善すべきところは…。」
この2人の意見のどちらがより日本のことを理解し、考えているだろうか。上っ面ないいところだけを述べる外人Aよりも、マイナス面も理解している外人Bのほうがより”親日”なのではないだろうか。
親日の定義が「日本に好意的な言動を示す外国人」であるから、好意的なことを言いさえすれば誰でも「親日」になれてしまうのである。筆者は親仏っぽい発言をいくらでもできるし、反仏っぽい発言だっていくらでもできるわけで、どこを切り取るかによって印象はいくらでも変わる。だからこのカテゴライズには何の意味もないのだ。
まとめ
ウィキペディアの「親日」と日本の外交の欄には、このように記されている。
日本では、戦後間も無くの頃から、国会においても、特定の国家に対して「親日的である」と答弁、質問が繰り返された。しかし、これらの答弁に具体的な根拠はなく、むしろ印象論に近いものと言える。
こういった「親日地域に対する外交対応」の問題では、報恩的な日本国内の価値観があり、自分に好意を抱いてくれている相手には礼を尽くすべきだという面で、問題視される。
ここにも書いてあるように、「親日」、「反日」というカテゴリ分けはごく日本的な価値観であることを、日本人は意識しておく必要がある。贈り物をもらったらお返しをするという文化が背景にある日本だからこそ、「贈り物をしてくれる人」とそうでない人を区別しなければならないが、諸外国が同じように「お返ししなくてはならない」という発想があるかといえばそうではない。「日本人の価値観」というフィルターを通して外国と接するのはもはや価値観の押し付けでしかなく、独りよがりになり、ミスコミュニケーションを生んでしまう原因となりかねない。
また、「親日」、「反日」というカテゴリ分けは単純でわかりやすいからこそ、気をつけたほうがいい。「親日」、「反日」と判定できれば相手の全てを知ったかのように錯覚してしまうが、本当はもっと奥が深い。「親日」、「反日」という判定することばかりに気がとられてしまう人が多いが、本当は「その根拠となる部分」が最も重要なのである。
よって、日本人は頻繁に使われるこのカテゴリ分けは単なるレッテル張りに過ぎないということを忘れてはいけない。
そもそも、外国人を「親日」と「反日」に分けることに、一体何の意味があるのだろうか。