海外生活をすると、日本にいた頃よりも見た目を気にしなくなる。
「海外生活をして変わった自分の性格」に、これを挙げる海外在住者は多い。筆者も日本にいた時と比べると、あまり人からどう見られるかを気にしなくなった。しかし、逆に日本に一時帰国したときなどは周りの目が気になって仕方がない。同じ人間がこのように違った感覚を抱くのだから、これはもう性格の問題というよりも環境の問題で、日本独自の環境が「見た目重視の人間をつくる」と言ってもいいのではないだろうか。
そこで今回は、日本の環境のどんなところが「見た目を気にしすぎる人」を生み出すのかに焦点を当て、その理由を6つ考えてみた。欧米との違いを参考にしながら、日本人が見た目を気にしてしまう原因を探ってみよう。
日本人の見た目に多様性がない
筆者の住んでいるフランスと日本の一番の大きな違いといえば、そこに住む人の多様性である。フランスは移民も多く、特に外国人の多いパリでは白人、黒人、アラブ人、アジア人、エスパニックと人種のレパートリーも多い。それに加え、白人だけの見た目を観察してみても、背が高い人もいれば低い人もいるし、太った人もいれば痩せた人もいる。瞳の色はブルー、グリーン、ブラウン、ブラックと様々だ。髪の毛の色も、金髪、茶髪、赤毛、黒とバラバラであり、肌の色も人によって大きく違う。
それに比べると、日本人は白人に比べて、見た目にあまり差がない。外国人やハーフが少ないことに加え、身長・体重などの体格の違いもなく、目の色も髪の色も大体の人が同じだ。目の大きさ、鼻の形、肌の色、手足の長さも違いが小さい。このように日本人は、見た目にあまり多様性があるとは言えない人種なのである。
日本人がみんな同じような見た目だからこそ、他とは違うアイデンティティを求め、“比べあいっこ”が始まるのではないだろうか。電車に乗って、隣に座る人が黒人やアラブ人だったら自分の外見と比べようとは思わない。似たような背格好の人が隣に座るから、自分の見た目が気になるようになる。海外でアジア人が近くにいると、比べられているような感覚になるのはこのためだ。
最初から外見の何もかもが違う人間とは”比べる”ことはないし、競争心も生まれない。隣にいる、自分と少し似ている奴よりも少しでもよく見られたいと思うから競争心が生まれ、見た目を気にすることにつながるのではないだろうか。
服装の自由がない
見た目の違いがないのに加え、日本では服装の制限が厳しい。幼稚園から高校まで学校制服を着なくてはいけないし、就職した後も服装や髪の毛、化粧、ネイルに至るまでファッションの制限は欧米に比べると、とても厳しい。制服を用意されている会社も多く、服装で自由に個性やアイデンティティを表現する機会が奪われている。
身体的特徴がほぼ同じで、しかもファッションも同じ。日本人はみんな同じような見た目になるから、「小さな違い」が際立つようになる。ちょっと目が大きい、ちょっと胸が大きい、肌がきれい、髪がきれい…。他人との区別の仕方が細かくて繊細な外見的特徴に集中する。だから、日本人は周りの人よりも良く見せるためのファッションや髪型、スキンケアなどの手入れに余念がなくなるのだ。
キャラ設定
集団主義社会の日本では、コミュニケーションの場における振舞いも「他人からどう見られているか」がベースとなっている。集団における登場人物の性格やバランスを見て、自分の立ち振る舞い=キャラを設定する。このキャラ設定は、自分が他人からどう見られているかという第三者的な観察力がないとできない。
つまり、日本的コミュニティでは、他人からどう見られているかがわからないと、立ち振る舞いもわからないということだ。自分のポジションや役割を理解し、集団のなかでうまく立ち回ろうとするから、他人の評価に直結する外見が気になるようになる。ある意味、見た目を気にすることは、日本社会でうまく立ち回るためのエチケットともいえる。
反対に、個人主義社会の欧米は、基本的概念が「他人は他人、自分は自分」なので、キャラ設定をしようとは思わない。集団のなかでどういう役割を演じるかよりも、対個人とのコミュニケーションや自己表現に意識が集中する。
他人のこともよく見ている
日本人は、他人の目を気にするだけでなく、他人のことも非常によく見ている国民だ。日本人が駅のホームで行列をつくるとき、まるで軍隊の整列かのようなきれいなラインをつくるが、これは一人一人が他人の動きに注目していないとできないことである。
社会でうまく立ち回るため、他人の動きや立ち振る舞いをよく観察する日本人は、自分が観察されていることも理解している。自分が他人のことをよく見ているから、相手にも見られていると感じ、これが欧米人に比べて日本人が見た目を気にしてしまう原因に結びついている。
「他人は他人、自分は自分」の欧米では、他人からどう思われているかを気にしない代わりに、他人の行動も気にしない人が多い。他人のすることは、自分には関係ない。事実、海外に住む日本人は自分だけでなく、周りの人の見た目も気にならなくなる。
“らしさ”概念の欠如
日本ではあまり貧富の差を感じることがない。一億総中流の日本では9割以上の国民が自らの生活程度を「中」であると感じている。このような社会では、ヨーロッパで見られる“階級”の概念がないため、身分相応に行動しようという意識がなくなってしまう。
食費を削って高級ブランドのバッグを買ったり、パートで働きながら息子のエリート私立学校の学費を稼いだり、ファミリーレストランで500円のランチを食べてくだらないクレームを出したり…。日本では、あまりにも「身分不相応」な行動をする人が多いように思う。何が自分の身の丈に合ったものか自体、自分でわかっていない人が多い。
日本国民の大多数が自分を中流階級だと考える一億総中流社会は、みんなが上を目指せと言われる社会でもある。お金持ちと自分は違うという意識はなく、国民全体で上を目指し、また流行を追う。
テレビで見たおしゃれなセレブのファッションを、そのまま真似るOLがいるのはこのためだ。「自分らしくあろう」という概念がないのである。働く必要がないほどお金持ちなセレブを、月給20万円のOLが真似をするというのはとても息苦しい。
階級の違いという概念がないから、自分の身分が理解できず、みんなが上を目指そうとする。そのなかでも、「私は成功している」ことを証明をしようとして、「見栄」が生まれる。見栄があるから、ブランド物で身を固め、見た目に気をつかう。見栄が、「見た目を気にする国民性」に拍車をかけるのだ。
もし、日本人に階級が違うというという意識があれば、女性ファッション誌の見出しで「セレブの通勤服」のような矛盾したうたい文句を目にすることはないだろう。一億総中流意識は、「私はこれでいい」という自己肯定感を奪い、見栄と必要以上の自意識を生んでしまっているように思う。
おわりに
ここまで、日本人が見た目を気にしすぎる理由を挙げたが、見た目を気にすることは何も悪いことばかりではない。見た目を気にするというのは、「他と同調しよう」という協調性の表れでもあるし、他人への思いやりだということもできる。
ただ、見た目を“気にしすぎる”人はこんな日本社会の構造を知っておくといいかもしれない。過剰な心配や不安はいらない。誰だって環境次第で、外見を気にする人にも、気にしない人にもなれるのだから。