アイドル活動をしていた冨田真由さん(20)が、ストーカー化したファンの男性に20ヶ所以上をナイフで刺されるという凄惨な事件が起こった。この事件を受けて、お笑い芸人のカンニング竹山さんはラジオでこのような発言をした。
“普通の女の子に、芸能人・アイドルになれますよと言って、金儲けしている大人がいる。このビジネスモデルはAKB48で始まって、これに便乗する人が増えたけど、こんなのうまくいくわけがないんですよ、芸能界で。でも、諦めさせない世の中になってしまった。芸能人なんて職業は、本当はなれないんですよ。ほとんど売れないですから。アイドルなんて、誰でもなれなかったじゃないですか、昔は。そういうものだったのに、誰でも芸能人になれますよって嘘ついて、金儲けしている大人たちがいっぱい出てきたから、こんな事件が起きたんだ。”
これは一理あるが、何もアイドルだけに限った話ではない。日本の芸能人はそのほとんどが、「ファンとの距離が近すぎる」のが特徴である。日本のテレビに出ている人たちのなかで、本当に才能(英:talent)がある芸能人は2割程度で、それ以外の出演者はほとんどが秀でる芸も、カリスマ性も、才能もないタレントたちである。アイドルなんかも、ここに入る。
タレントという意味をネットで調べてみると、
タレントと呼ばれる職種は、通常、何らかの専門的な技能を発揮するよりは、人目を引くような容貌・服装・話し方・振る舞いなど、本人の総合的なキャラクター性によって視聴者の関心を集め、場の雰囲気を盛り上げる役割を果たす。
とあった。つまり、タレント(才能)と呼ばれながら、才能はないという何とも皮肉な現象が起きているというわけだ。そもそもなぜ、このような枠が日本の芸能界では必要なのだろうか。
それは、日本の芸能界が、芸能プロダクション単位で仕事を動かすからである。実は、世界的に見れば、日本の芸能界のあり方は非常に独特で、たとえば、アメリカには「芸能プロダクション」はない。アメリカで働く芸能人は、最初から独立した個人として活動するからだ。つまり、芸のない人間にも仕事を持ってきてくれる“事務所の後押し”がないので、秀でたものがない人は必然的に有名にはなれないわけである。
しかし、アメリカのテレビでは、一般人とは違うカリスマ性のある芸能人ばかりが出演するかというとそうではない。日本でいうタレントのポジションとして出演する人もいる。それは、一般人だ。
アメリカやヨーロッパでは、一般人が日本よりも多くテレビに出演する。クイズ番組やリアリティショー、トークショー、ドキュメンタリーなどは、司会者以外は全て一般人による出演だ。
スピードラーニングのポッドキャストでは、日本在住の外国人英語講師が、日本と北米のテレビの違いとして、「日本の芸能人は役者でありながら、CDを発売し、お笑い番組に出て、歌番組にも出る人がいるが、北米ではこんなことはない」と言っていた。こういうマルチな芸能人は“master of none”で、結局はどの分野も才能がないと北米ではみなすようである。
つまり、日本のタレントたちは、まさに「一般人の代わり」という位置づけなのである。タレントとは、一般人の代表であり、一般人の象徴。普通の人よりちょっとカッコよく、ちょっと可愛くて、ちょっと面白くて、親しみやすい人が時代によって使い捨てられる「テレビタレント」という職業だ。
テレビタレントとは身近さがミソで、普通よりちょっと素敵な人だからこそ自己投影しやすく、ファンは応援したいという気持ちにさせられるのだ。要するに、海外に比べ、日本は本当に芸のある「芸能人」と、近所にいる可愛い子レベルの「タレント」の境界線が非常に曖昧なのである。
この点を、テレビを観る側の視聴者も、これから芸能人になりたいと思っている人もわかっていたほうがいいのではないかと思う。カンニング竹山が言うように、タレントやアイドルをテレビで見て、「自分もなれるかも?」という幻想を抱きやすい日本の芸能界の仕組みの延長に、近すぎる距離感を売りにするアイドルが誕生したのではないだろうか。
富田真由さん刺傷事件の犯人のように、頭のいかれた危険人物は日本に限らず世界中にいる。しかし、“身近さ”を売りにした日本の芸能プロダクションのあり方や、テレビ業界の仕組み全体が、このような勘違い変態ストーカーを生みだしているといえなくもない。
本来、芸能人は一般人とは違う、雲の上の存在であるべきだ。今回の悲劇は、誰もがアイドルになれ、誰もがアイドルにあえる時代になったからこそ起きた犯罪なのかもしれない。