日本語の「幸せになる」って表現、
何だかおかしくない?
日本語を学習して5年ほど経ったフランス人の友人が、ある日こう言った。
日本人の友人が「幸せになる」と言っているのを耳にしたり、日本のテレビ番組でこの言葉を聞くたびに、何だか変だなぁと感じていたらしい。そのフランス人の言い分はこうだ。
❝日本語の「幸せになる」っている表現に近い英語は”be happy“、フランス語では”être heureux“。「幸せ」っていう単語には、どちらも状態動詞のbe動詞を使うんだけど、日本語の場合は「~になる」っていう変化を表す動詞を使っているよね。
もちろん、フランス語でも”se rendre heureux“とか、”devenir heureux“という言い方もできるし、間違いではないけどあまりこういう言い方はしない。「幸せ」という状態に「いる・ある」の意味で使う、”être heureux“という言い回しが一般的だよ。
日本語の「幸せになる」っていう表現が変だなぁと感じるのは、変化動詞を用いることで、まるで今の状態が幸せじゃないっていうように聞こえるから。ひねくれているかもしれないけど、他人から「幸せになってね」と言われると、前提として「あんたは今幸せじゃないんだから」と言われているみたい。
フランス語では、「幸せ」が変化するものとして捉えるなら、”devenir plus(もっと) heureux“のように、「今よりももっと」という意味の単語を加えないと、意味として成立しないしね…。
今ある幸せを無意識のうちに否定する「幸せになる」っていう日本語が、そもそもの不幸の始まりだと思うよ。・・・・・❞
なるほど、そんな考え方もあるのか。私自身、ここまで深く考えて「幸せになる」っていう言葉を使っていなかったので、ハッとする思いだった。
たかが言葉、されど言葉だ。日本語には、英語やフランス語にはない「よろしくお願いします」、「お疲れ様です」という素晴らしい言葉がある。筆者はフランスで暮らしてみて、これらの言葉がいかに日本人の集団に対する考え方や、日本人の社交性に影響を与えているかに気が付いた。反対に、これらの言葉かけがない社会では、「集団のなかの自分」という感覚がどうしても欠けてしまうことも知った。
「人間は自分の語彙の範囲でしか考えることが出来ない」というが、これは裏を返すと、使う言葉がダイレクトにあなたの思考をつくるということである。言葉が思考をつくり、思考が感情をつくり、それが日々の会話に繋がる。
その日々の会話が社会をつくり、人間関係をつくり、文化をつくって、国となる。
つまり、言葉のチョイスがあなたの世界なんだと思う。
だから、私たちが普段、無意識のうちに選び出す言葉には注意したほうがいい。言葉には、目に見えない「チカラ」があるからだ。
毎日、「幸せになりたい」と口にし、『幸せになる方法』という題の本を読み、テレビで「あなたが幸せになれない5つの理由」なんて特集の番組を観ていたら、知らず知らずのうちにあなたは、「私はちっとも幸せじゃない」と感じるようになるだろう。
ベストセラー作家小林 正観は、「幸せ」についてこのように語っている。
“普通に歩けることを幸せだと思った人には、幸せが1個。目が見えることを幸せだと思った人は、幸せが2個手に入る。耳が聞こえて幸せ、口で物が食べられて幸せ、鼻で呼吸ができて幸せ…というふうに考えていったら、いくらでも幸せが手に入ります。”
“本当に幸せを感じる人というのは、足りないものをリストアップするのではなくて、足りているもの、いただいているものをリストアップする人。自分がいかに恵まれているかに気がついた人である。”
要するに幸せになりたかったら、今ある幸せに気がつけってことだろう。
あなたはもう、今すでに幸せなんだから。
“幸せになる”必要なんてない。”変化”する必要もない。
大切なのは、いただいているものに”気づく”ことだから。
それに気が付ける「状態」にいることを、「幸せ」っていうんじゃないかなぁ。
そう考えてみると、フランス人の友人が言ったように、「幸せ」という名詞に変化動詞をつけるという組み合わせは、何だかおかしい。
「幸せになる」っていう発想自体が、
そもそもの不幸の始まり
うまいこといったもんだと思う。