ホームニュース「日本死ね」に炎上する人は読解力がない。すぐ感情的になる人の共通点

「日本死ね」に炎上する人は読解力がない。すぐ感情的になる人の共通点

「ユーキャン新語・流行語大賞」が発表された。今年ベストテンにランクインした「保育園落ちた日本死ね」をめぐって、はたしてこの言葉が流行語にふさわしいのか否かで論争が起きている。ネット上では荒れに荒れ、審査員の俵万智氏のツイートに批判が殺到するという騒動にもなった。

結果として、今となっては「保育園の数を増やして、働く母親が活躍できる社会になってほしい」というブログ主が最も伝えたかった願いは完全に無視され、「日本死ね」という言葉の是非が議論されるような本末転倒な事態になっている。そしてそうやって炎上する人のほとんどがブログ記事の全体は読まず、話の論点も掴もうとはしていないようだ。

元のブログを読むと、「エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ」とか、「保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ」とか、言葉はきついが、的を得ていることを言っているのに、これについて議論する人は誰もいない。ただただ、「日本死ね」という言葉に感情的になっている人と、これを擁護する人の論争という構図になってしまっている。

全くおかしな現象だ。そういえば、筆者もこれと同じような経験をしたことがある。『障がい者はいらない…そんな気持ちがないと本当に言えますか?』という記事を書いた時のことだ。

相模原市の知的障害者施設で起きた殺傷事件で犯人が言った「障がい者はいらない」という言葉。これをニュースで聞くとそんな酷いこと言うなんてありえない!と憤るが、それは自分(健常者)が障がい者と接するという機会がなかったからではないか。それだけ、健常者と障がい者が社会で交わっていないということではないか。自分の欲求と、障がい者の欲求が拮抗したときに、自分の欲求が最大限に満たされる方の選択をする人がほとんどなのではないか。それなら、どうすればいいのか。障がい者に出会った経験を通して、筆者が感じたことをブログに記した。

すると、これが結構炎上したのだ。なかには家族に障害を持った人がいて自分のことのように傷ついたという読者もいたがそれは少数派で、ほとんどが記事すらも読まず、タイトルの「いらない」の言葉に腹をたてた人だった。

「他人の読解力のなさを責める前に、自分の文章力を改めろ」と自分でも思うが、コメントやツイートで拡散する人は最低でも「記事は最後まで読んで書き手の意思を理解しようとする」義務があると思う。しかし、現実は「いらない」の言葉に怒り心頭して感情的になり、わかったつもりになって冷静に文章を読解できず、挙句に反撃にでる「がや」が多い。

むしろ、実際に障がい者施設で働いている人や、家族に知的障がい者がいる人は、じっくり深く記事を読んでくれ、筆者が伝えようとしていることを理解しようとしてくれ、その上で独自の視点からコメントしてくれている人が多かったように思う。それだけ、障がい者と深くかかわっている人にとっては、「障がい者」というトピックに真剣だからだ。

逆に、感情的になって「言葉じり」を論点にすり替えようとする人は、本当のところは障がい者のことなんてどうでもいいのではないかとさえ思ってしまう。障がい者と健常者の共生を真剣に願っている人は、せっかくの機会をそんな下らない言葉じり論争にすり替えられるのが勿体ないと感じるのではないだろうか。

「日本死ね」に炎上する人は読解力がない。言葉じりにすぐ感情的になる人の共通点

「日本死ね」も同じことだ。この言葉に腹を立て、ネットで炎上を繰り広げている人たちは、実際に保育園が見つからなくて、働きにいけない都会ママの事情なんて、他人事で、どーだっていいのだと思う。ただ単純に、「日本死ね」と自分の大好きな日本が攻撃されていると感じて思考停止し、幼稚にキレているだけで、このブログ主の気持ちや問題の本質を理解しようとはしていない。自分に関係のないことだから、都会の母親がどういう苦労をしていようが知ったこっちゃない。それより、「日本死ねって下品な言葉、ありえないざますっ!」と正義感を振りかざすことに必死なのだ。「だったら中国や韓国に住めば?」と反撃するなど、まさしく愚の骨頂。聞いているこちらが恥ずかしくなってくる。

ここまでいくともう、はっきり言って議論にならない。古市憲寿さんがテレビで言っていたが、「読解力のない人が多すぎる」とは本当にその通りだと思う。

実際のところ、日本が何をもって死ぬことになるのかだって不明確だし、「マダムリリー死ね」とか、「日本人死ね」とか、個人名や集団名を名指しで言っているのとは、わけが違う。「日本死ね」とはあくまで言葉の綾だということがわからないのだろうか。

それに、「日本死ね」というインパクトが強い言葉があったからこそ炎上し、世間で注目され、流行語大賞にもノミネートされたのだ。この汚い言葉があったからこそ、国会で審議されるほど”社会を動かす”力があったのだ。それを「保育園に落ちました。もっと保育園が増えて、母親も働きやすい社会になってほしいです」なんて、何の風もなびかないような、そこらへんにある通り一遍の言葉で書きつらねていたら、誰ひとり見向きもしなかっただろう。

しかし、とはいえ「日本死ね」という表現に反対する人の気持ちもよくわかる。「死ね」なんて汚い言葉が文字通り”流行”する社会なんて嫌だし、こんな言葉を簡単に使えるようにはなってほしくない。「死ねなんて言葉使っちゃいけませんよ!」という幼稚園のしつけとはかけ離れたところで、大人の世界では強い言葉での論争が増えてきている。

これはトランプ氏が当選したときに感じたことだが、最近は「強い言葉で発言する人」イコール、「勝利する人」という構図になってきているように感じる。毎日大量の情報が生み出されるネット社会では、なにより「目立つ」ことが大切だ。ブログもツイッターもそうだが、限られた少ない文字数のなかで、いかに興味をそそる言葉を入れて目立つかが勝負である。そういうネットの世界では、強くてインパクトのある言葉を巧みに選んで、上手いことを言う人が勝つ

しかし、これがネットだけではなく、現実世界にも当てはまるようになると問題だ。誰もが「死ね」とか、「くそ野郎」のような言葉を戦略的に使って、言いたい放題になってしまったら、人間関係もぎすぎすしたものになってしまうのではないだろうか。そういう意味で、「日本死ね」という表現を危惧する人の気持ちはわかる。

しかし、「日本死ね」に炎上している人の意見を見ていると、自身も同じような酷い言葉を使って(もっとひどい場合も多い)反撃しているケースがほとんどだ。ツイッターで、#ユーキャン死ね、#山尾死ねなんてツイートしている人の言葉遣いと言ったらひどい。言葉の大切さがわかってないはどっちだよ、と言いたくなる。

筆者が書いた「障がい者はいらない」の記事でも、「あなたのような勘違いした同胞に出会ったら、わたしはあなたを大嫌いになり、また同じ日本人として恥ずかしく思ったでしょうね」とコメントした人がいる。これにはとても傷ついた。

自分が傷つけられたら、相手に何を言って反撃してもいい。
自分が傷つけられたんだから、相手をどんだけ傷つけても許される。

そんな発想は不幸しか呼ばない。

攻撃されたと早とちりして、思考停止し、すぐ防御態勢に入って反撃する人とは議論ができない。議論ができないから、反省しない。反省しないから、改善もない。改善がないところには、発展も成長もない。だから、

言葉じりをとって、すぐに感情的に反撃する人は、やっぱり読解力がない。頭がものすごーく悪そうにみえる。

これが、ネットで炎上に加担する人たちの共通点だ。

 

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