ホームジャパンなぜ日本人はマニュアル通りにしか対応できず、融通がきかないのか?

なぜ日本人はマニュアル通りにしか対応できず、融通がきかないのか?

日本を訪れた外国人は大体こんなことを言う。

「日本人ってサービスは良いけど、融通がきかないよね。」

これまでこのサイトでも紹介してきたが、確かに日本のサービスの良さを誉め称える外国人は多い。しかし同時に、日本人がマニュアル通りのサービスしかできず、融通がきかないことを不満に思う外国人もいる。

 

岡崎大五著の「笑える世界の七癖エピソード集」にはこんなエピソードがあった。

それは、アイルランド人がレストランに入り、レモネードを頼もうとしたエピソードだ。残念ながらレモネードはメニューには無かった。そこで仕方なく、ソーダを頼んだ。でもカウンターの隅に生のフルーツが盛られ、そこにレモンがあった。
なので、「あのレモンをくれないか?」と頼むと「それは出来ません」と言われた。なぜなら、「そんなメニューは無いから値段は付けられません」という答えが返ってきた。彼が「お金を払う」と言ってもダメだった。

確かに日本では、毎日行っているコンビニの店員さんに毎回「お箸をお付けしましょうか?」と尋ねられたり、上の例のようにお金を払うといっても売ってくれないことが度々ある。これらの対応は日本人としてはまぁ普通であるが、確かに海外のサービスと比べると日本は融通がきかないと言われてしまうかもしれない。

フランスに住んでいるとサービスの悪い無愛想な店員に腹を立てることも多いが、「えぇ!こんなことまでやってくれるの?」と驚いてしまうような臨機応変なサービスをする人も多い。

例えば、メニューには「シーフードのクリームソースパスタ」と表示されていても「トマトソース」に変更してくれたり、あのシロップとこのリキュールを混ぜてカクテルを作ってと頼んでみれば、大抵が対応してくれる。パン屋さんで「ドライイースト」だけを注文して買ったこともあるし、フランス人経営のすし屋で「酢飯」だけを買ったこともある(もちろんメニューにはなく、妥当な価格を設定して請求される)。

 

海外のサービスに比べると、マニュアル通りにしか動けないと揶揄される日本のサービスは、どこか「ロボット」のようだ。メニューにのっていないから対応しない、マニュアルにはないことだからできないというのは、何とも機械的な印象を受ける。その点、フランスのサービスは「個人対個人」という側面が強く、サービスをする側もされる側も優越がないように感じられる。そのため、店員とお客さんがまるで友達同士かのように世間話を始めるという光景をよく目にする。

「サバ?(元気?)最近どう?ご家族は元気?」といった具合で会話が始まり、「ウチの妻も最近○○でね~」というプライベートな話にまで発展したりする。店員とお客さんが自分の家族の体調や休日の過ごし方、バカンスの話などで盛り上がる。もちろん日本でもこういった対応をするお店もあるだろうが、フランスの方がより頻繁に目撃するように思う。

 

なぜ日本人はマニュアル通りにしか対応できず融通がきかないのか?なぜこのような違いがあるのだろうか?なぜ、日本人はマニュアル通りにしか対応できず融通がきかないと言われてしまうのだろうか。

日本の大学でフランス語を教えているジャン=リュック・アズラ教授は、日本人がマニュアル通りに動く傾向にある理由を、「日本では役割を果たすことが大切だとされているから」としている。私たち日本人はいつも、どんな時でも「役割」を演じているのだという。彼が日本では「役割」が大切だと考える理由は3つある。

まず1つは、日本はフランスと違って、マニュアル通りに動くことを「良し」と捉える人が多いそうだ。日本では「マニュアルを無視して勝手な行動する人」よりも、「マニュアル通りにしか動けない人」の方がまだマシだという考えを持っている人の方が多い(参照)。反対に制服すらなくなりつつあるフランスでは、型にはめられることを嫌がる人が多く、個人の力量を判断しようという意識が高いという。そのためフランスでは、融通のきかない従業員は周囲に認められにくいそうだ。

第二に、日本では社会的役割から人間関係を構築する傾向にあるという。お店の店員さんは店員さんであり、お客と店員という関係以外の何物でもない。それ以上でもそれ以下でもなく、この点がフランスとは異なるとアズラ氏は指摘している。妻として、旦那として、親として、子どもとして…。それぞれが周囲から期待されている役割があり、それを尊重した発言や行動をとることが日本社会では大切なのだ。また、日本語では一人称の言い方も様々で「私」、「僕」、「おれ」など性別や役割によって区別しようとする傾向が強いとしている。

最後に、日本ではその場その場の役割によってアイデンティティを作り上げる傾向にあるという。フランスでは学歴や職業、出身地、宗教、民族などから個人のアイデンティティを作り上げる。反対に、日本ではまるで制服を着替えるかのように、その場その場に応じて自分の役割を担うのだという。つまり、仕事で接客をする立場になれば「その会社の接客業をする人」の役割を全うし、子どもの幼稚園に行けば「母親、父親の役」を全うする。どこにいっても一つのアイデンティティでいられるフランス社会とは違い、日本ではその場その場に応じて、臨機応変に求められる「役割」を果たすことが重要だとされているのだ。

 

しかし、そうなると日本人というのは融通がきかないわけではなく、マニュアル通りにしか動けないわけではない。私たち日本人と言うのは本当はその正反対の、ものすごく臨機応変な人たちなのではないか。結局のところ、日本人が融通が利かないと言われるのは、「求められる役割を真面目に果たそうとするとするから」なのではないかと思う。だからマニュアル通りに行動し、マニュアルにはないことはしようとはしない。企業のマニュアルというのはある意味で、「台本」のようなものだ。あなたがうまく役作りができるように手助けするシナリオである。

 

日本人を役者に例えるなら、それはきっとアドリブはきかないが色んな役を演じられるマルチな人になるのではないだろうか。アドリブには向いていないかもしれないが、決して大根役者ではないということを外国人にも理解されるようになればいいなと思う。

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