wikipediaによると、日本人とは、「日本国の国籍を持つ者、もしくは日本国内に古来より居住してきた、日本列島にルーツを持つ人々」である。
そして私たち日本人は、この“日本人”という言葉を自分たちを指す総称として当たり前のように使う。「日本人とは~」、「日本人として~」、「日本人だったら~」など…。
しかし、現実ではもっと複雑で日本人とも○○人とも、どっちつかずの人もいる。単に、日本にルーツがあるだけで日本人と言えるのか疑問に思うこともあり、混乱してしまうのだ。
例えば、
a.) 日本人の両親に育てられ日本語も話せるが、フランスで育った人。
b.) 中学生になるまで日本で育ち、その後韓国で育った人。
c.) 日本に20年、アメリカに30年住んでいた50歳の人。
d.) 日本人とフィリピン人の親を持ち、中国で育った人。
仮にこれらの人がみんな日本国籍を持っているとして、それで日本人と呼べるのだろうか。なかには日本人としての誇りも意識も全くない人もいるし、自分の育った国よりも日本を愛している人もいる。反対に日本にルーツがあるにも関わらず、日本を嫌う人だっている。
日本人の定義はシンプルなようで、心理面では非常に定義しがたいもののように感じる。
例えば人生の大半を日本ではなく海外で生活していた人がいて、海外での文化や生活に慣れ切った人が日本に帰国してきた場合、周りの日本人は彼らを日本人として受け入れるのだろうか。
例えば日本の両親に育てられ、海外の文化の中で育った人は、行動や考え方、振る舞いが日本人のそれとは少し異なることが多いが、顔は日本人なのに、何となく雰囲気が外国人っぽい人を日本人と呼ぶのだろうか。
こうなると、日本人が何なのかわからなくなる。結局のところ、日本人というラベルが意味することは何なのだろうか。
日本人に限らず、○○人というナショナリティーの違いというのはひょっとしたら大した意味を持たないのかもしれない。
ある1つの国の、国籍や国民性、民族を示す、ナショナリティー。それは、私たち人間に深く根付いているものであり、本当はものすごく曖昧なものなのかもしれない。
そう考えると、世の中の国ごとで起きる紛争や戦争も、「○○人は~だ」という決めつけや差別も、何だか馬鹿馬鹿しくて仕方ない。