先日、去年から通っているパリのフランス語教室に、一人の日本人女性が入ってきた。彼女は在仏期間が1年未満。“フランスに来たばかり”の部類に入る人だ。
彼女を見ていると、昔の自分を思い出す。
周りに変な人だと思われたらどうしよう?と不安になるから自分が出せない。おぼつかないフランス語の間違いを指摘されるのが怖くて、発言できない。人の話を聞きながら「何かしゃべらないといけない」と焦っているから、いざ話をふられたときにうまく返せない。自分が話した後の相手の反応を見て、「またうまく話せなかった」と自己嫌悪に陥る。自己嫌悪になるから、ますます会話をするのが怖くなって話せない…。
そんな彼女の心境が手に取るようにわかる。「あぁ、私にもこんな時期があったなぁ…」と、彼女の自信のなさそうな態度や言動を見ていて、懐かしいような、苦しいような、ほろ苦い気持ちになる。
当時の自分と今の自分の違いは何かと考えてみると、それはやはり“日本人っぽさ”が残っているか否かではないかと思う。
日本人っぽさ…それはつまり、空気を乱すことなく周りとうまくやっていきながら、良好な人間関係を築こうとするコミュニケーション方法であり、集団主義社会で「周りとの協調」を鍛え上げられてきた日本人にとっては、いい意味でも悪い意味でも、海外生活で“日本人っぽさ”を抜いていくのに苦労するのだ。
特に、多国籍の人が集まるパリのフランス語教室のような“周り”や“空気”を掴みにくい場では、自分がどう振舞っていいのかが最初のうちはわからない。「空気を乱さない」というルールは、どんな空気なのかを掴めてはじめて守れるルールなわけである。
しかも、日本人以外の外国人ばかりの集団に入ると、「空気を乱さない」というルールは、同じように和やかな空気をキープしようと努力する人たちがいるからこそ、守れるルールなのだということがわかってくる。初対面でもはっきりと反対意見を言う外国人や、その場の空気が少し悪くなっても自己主張をする人などを見ていると、日本人と同じコミュニケーション方法をとっていてはダメだということが、理解できるようになってくる。
これまでのコミュニケーションルールでは通用しない場に入れられ、どう自分を表現すればいいのかわからない。そんな混乱状態が、自信のない態度や言動につながってしまうのではないだろうか。
そして、このフランス語教室で自信のなさそうな彼女を第三者として見ていると、わかることがひとつある。それは、
自信のない人は避けられやすい
ということだ。
話しかけても、気まずそうに困った顔をされたら、話しかけたほうも「悪かったかな?」と思ってしまう。自信のない人の落ち着かない不安な心境は、話しかけたほうにも伝染する。
これが一度や二度ではなく、繰り返されるうちにだんだん話しかけなくなっていき、仕舞いには自信のない人は集団の隅に追いやられてしまうのだ。
それでは、海外の外国人ばかりの集団のなかで、どうすれば日本人はうまくやっていけるのだろうか。
これはもう、失敗を繰り返して、場数をこなしていくしかないように思う。経験が増えていくと、そのうち「他人にどう思われるのかを気にする」ことが馬鹿らしくなっていくからだ。“空気を乱してはいけない”というすり込みが消えるまでが勝負。言語を習得するのと同時に、「他人にどう思われても気にしない人になれるか」が海外適応できるかどうかの分岐点になるように思う。
しかし、最初は外国人の集団のなかでどう振舞えばいいのかわからなくて苦労するが、「他人は他人、自分は自分」と心から思えるようになれれば、海外生活はとーーーっても楽だ。自分らしく、気楽にのびのびと生きていける。
そんな生き方を教えてくれるのも、海外生活の醍醐味だと思う。
パリでの発砲事件ではリリさんは無事だったでしょうか?
無事でした。ありがとうございます。