先月、俳優の橋爪 遼さん(30)が覚せい剤取締法違反の現行犯で逮捕された。これにより、遼容疑者がキャストに名を連ねる最新映画「漫画誕生」から、遼容疑者のシーンが全てカットされ削除された。彼の俳優人生も、いや人生そのものも、これで終わりなわけである。
ここ数年、芸能人の覚せい剤逮捕の報道をよく目にする。ASKA容疑者、清原容疑者、高知東生容疑者、酒井法子容疑者など、大物有名人が覚せい剤使用で逮捕される度に、見世物のように集団で袋叩きにする報道を見ていると、薬物依存そのものよりも汚いマスコミに嫌気がさしてしまうのは筆者だけではないだろう。
“容疑者”という蔑称をつけられたら最後、人権なんてあったものではない。悪いことに手を出してしまった人には何をやってもいい。だってそもそも、薬に手を出す人が悪いんでしょ?薬物どうせやめられないだろ。絶対また手を出すぜ?…こうやって、人が堕ちていく様を面白がって観察する「人間の汚さ」みたいなものが垣間見れる芸能報道が、ただただ不快である。
そう、日本では一度クスリに手を出すと、「人間」ではなくなってしまうのだ。
日本在住ライターPhilip Brasor さんは、この原因が1980年代に放送された公共広告CM『覚せい剤やめますか?それとも人間やめますか?』にあるのではないかと分析している。
「人間やめますか?」というフレーズは、単純に薬物の恐ろしさを伝えるためのスローガンなのだが、現実に日本では一度薬物に手を出すと文字通り「非人間扱い」をされるのである。
薬物依存から「更生」するという言い回しの問題点
薬物依存は他の依存症と同じく、病気だ。やめたくてもやめられない状態が薬物依存症であり、クスリを使っているうちに、そのクスリの作用で脳の一部の働きが変化して、「クスリがどうしても欲しい!」という欲求が抑えきれなくなる。こうなってしまうともう、「理性」でやめられる範疇を越えており、欲求は意志の力で抑えることができなるのだ。(厚生労働省HP「知ることからはじめようみんなのメンタルヘルス」から一部抜粋)
さらに、「薬物がどうしても欲しい!」という欲求が抑えきれなくなった脳は、半永久的に元の状態には戻らないという。要するに、薬を使って一度脳の働きが変化してしまった人=病人にいくら「やめなさい」、「更生しなさい」と言ったところで無駄なのである。ましてや、「何でそんなものに手を出してしまったの?」という後の祭りでしかない”責めの言葉”をいくら投げかけたところで、何の意味もなく、むしろ薬物依存症患者をさらに精神的に追い込み、更生しにくくさせているのだ。事実、2015年の覚せい剤事犯の再犯者率は約65%と非常に高く、これは先にあげた「世間からの非人間扱い」がますます事態を悪化させていると指摘されている。
いや、そもそも、薬物から「更生」するという言い回し自体がおかしいという意見もある。「更生」とは、生活などを改めることで、主に誤りを犯した、又は失敗した者が、再度やり直すことをさすのだが、この言葉はどうも「犯罪者を牢獄に入れて立ち直らせる」という意味合いが強い。本来なら「更生」ではなく、「回復」という言葉を使うべきで、病院できちんと治療したり、医療施設や相談所に通うなどの取り組みを社会がバックアップしていくべきなのである。
さらに重要なのが、なぜ依存するまでに至ったのか、その原因(人間関係、お金、感情、ストレスなど)の根本的な問題を取り除いていくことだ。薬物に手を出した人は犯罪者で、人間的に劣っていて、日本社会に「悪」をもたらすダメ人間という一面的な見方ではなく、「一度の過ちから抜け出せなくなっている病人」として捉えるもう一つの見方が必要なのではないかと思う。
「失敗」を許さない日本
とはいえ、それなら日本の覚せい剤取締法を緩くするべきだと言っているわけではない。薬物に手を出した人、特に「薬物を広める人」を厳しく罰することで、日本社会の治安と平和を守っていくべきだという意見にも賛成だ。
しかし、なかなかやめれずに苦しんでいる人に対して「意思が弱い」とか、「人間のクズ」といい、人間扱いしないような厳しい態度に出るのはやはりおかしいと思う。失敗をして、社会の「枠」からはみ出てしまった人には何を言っても、どんなにバカにしてもいい…という風潮がどうにも好きになれない。
これは何も薬物依存だけに限らず、芸能人の不倫問題や政治家の不祥事の時もそうだった。この「悪いことしたのはそっちだから!何をされても文句言う権利なし!」という、正義のために何をやってもいい雰囲気が本当に怖い。たまにこういった日本の「異常な騒ぎ」を海外から見ていると、何だか一時的でも帰国するのが怖くなる。
フリーターやシングルマザーなどもそうだ。とにかく社会の「枠」に当てはまっていない人に対しての風当たりがあまりに厳しすぎるように感じる。
そういえば、舛添元知事が辞職するときに厚切ジェイソンが自身のツイートで「日本は人間を失敗させない社会。セカンドチャンスがないので、リスクを冒せない。」とコメントしていたが、個人的にはこれの意味が本当によくわかる。というか、
そもそも日本人って、みんなそんなに潔癖で、完璧なの?
みんながみんな、絵にかいたような順風満帆な人生を歩んでいる人ばかりなの?
世の中は色んな人がいるから面白いわけだし、人生で全く失敗したことのない人から何かを学べるとは思わない。ベッキーにしても、田代まさしにしても、失敗したことによって、その人の人生に「奥行き」がでるし、他人をもっと理解できるようにもなるし、成長に繋がるのではないかと思う。
だから、「枠」からはみ出た人を徹底的に叩くことを良しとする社会は、息苦しさしかない。
「薬物依存症」の話から大分逸れてしまったが、「薬物をやった人=犯罪者=非人間」という一面的な見方ではなく、「病人」や「社会的弱者」など別の角度から捉えることが、日本が本当の意味で良い国なるうえで必要な考え方だと思う。失敗に厳しすぎる日本人が、薬物依存者をさらに追い詰めて苦しめているという事態をもっと知ったほうが良い。
人生で失敗してもいい。人と違っていてもいい。
変化する国際社会の中で、日本がこれからも多方面で「先進国」として生き残るには、そんなダイバーシティ(多様性)を認め、「異」に寛容になることが必要不可欠な気がする。
と、こんなことを言うと、また潔癖で完璧な日本の「世間様」は怒るのだろうか?
↑とても勉強になりました。