白人や黒人など、一目見て「外国人」だとわかる人が日本で生活すると、損することもあれば、得することもある。例えば、どれだけ日本語を学習しても、日本人のブロークンイングリッシュで返事されることなどだ。これにフラストレーションを感じてしまう外国人は少なくない。
しかし、こういった「日本在住の外国人が抱える悩み」というのは、日系外国人には当てはまらないという。日本在住の日系人というのはいわば「目に見えない外国人」だと、海外サイトGaijin Potのライター、石井クリスティさんは語る。
そこで今回は、彼女が書いた記事の一部を紹介し、日本にやって来た日系外国人がどのような立場にあり、どのような経験をするのか、探ってみようと思う。
INVISIBLE GAIJIN: POSTCARDS FROM A NON-JAPANESE JAPANESE PERSON LIVING IN JAPAN
日本で暮らす日系人は腹の立つことも多い。例えば、日系人は日本に住んでいたら、それが都会であれ田舎であれ、このような経験をする。
- 駐輪場で(日本人から):「君はアメリカ人じゃないでしょう?何なの?バカなの?どうして日本語話せないの?」
- 渋谷のクラブで(日本人から):「ねぇ、彼があなたと話がしたいって。何だよ、日本語話せないの?(言い捨てられる)
- 京成成田空港線にて(他の外国人から):「わぁお!君の英語は完璧だね!どこで学んだの?」
- 地元のラーメン屋さんで(日本人から):「ええと、君は日系人ってことはハーフなの?違う?じゃあ、クウォーター?」
- 東京在住外国人向けのイベントにて(他の外国人から):「君はどれくらいアメリカに住んでたの?日本に帰ってこられて嬉しい?」
- 職場の飲み会にて(日本人から):「なにその恰好?気でも狂ったの?ダメだよ!」
- 社会人野球の練習にて(日本人から):「なんだぁぁ?エッチ!そんな短いショートパンツ穿いてきちゃダメだよ!セクハラだよ!」
こんな風に言われて、限られた日本語力でどう説明すれば、自分のことをわかってもらえるのだろうか。日本人にしか見えない見た目で、日本語で話しながら、「私は完全にアメリカ人なんです」と説明したところで誰が理解してくれるだろうか。当時の私は、日本語で日本人に自分のことを上手く説明する言葉を見つけられなかった。私はそのことに罪悪感を抱き、同時に口がきけない無力さに打ちひしがれていた。
日系人は日本人じゃない、それらしく”見える”だけだ
日本人の祖先がいる日系人として、日本語を習得することへのプレッシャーを嫌というほど感じてきた。ジグソーパズルがはまらないように、私が文化的に馴染めないのは私の日本語能力のなさからくるものだと信じていた。
アメリカでは、日系人だからといって必ずしも日本語を学ぶわけではない。アメリカ合衆国国税調査局(the U.S. Census)の調査によると、アメリカに生まれた日系アメリカ人の82.5%は英語しか話せない。私もこの82.5%のなかの一人だった。いや、日本に来るまでは。私は日本人のように黒髪で、こげ茶色の瞳で、身長が低くて(154cm)、それなのにアメリカ生まれ、アメリカ育ちで英語しか話せないのだ。
他のアジアの国に祖先をもつ「アジアンアメリカン」と比べてみると、中華系アメリカ人と韓国系アメリカ人の60%は英語以外に外国語1言語を話せるらしい。日本では多くの日本人に「あなたは日本人そっくりね!」とよく言われたが、他の日本にいたアジア圏の外国人と比べてみても、私は日本人っぽいと自分でも思った。日本人以外のどこかの国の人に似ているとも思わない。
血筋では、英語で言うところの“Japanese American(日系アメリカ人)”なのだが、私は単純なアメリカ人とは言えないし、だからといって日本人のオリジンを消すこともできない。アメリカでは私は日本人だが、日本では私は一体誰なんだろう?
日本人の顔、アメリカ人らしさの消失
日本ではどこに行っても、叔母や叔父、いとこや兄弟にそっくりな日本人を見つけることができた。それなのに、私が英語で話すと「外国人なんだ!」と驚かれる。私が滞在していた日本の小さな町では、どの日本人も初対面の私に困惑している様子だった。特に私がぎこちない日本語で話したときは。
ALT(外国語指導助手)として働くための面接では、「クラスの子どもたちにあなたの文化としてアメリカから持ってくるものを3つあげて下さい」と聞かれた。私にとってのアメリカ文化といえば、戦前の日本(私のひいおじいちゃんおばあちゃんの世代)の古き良き時代の文化と、地元のカリフォルニア州サリナスのコンビネーションだ。他の日系五世と同じように、夏にはお盆祭りに行き、美味しいタコスとエンチラーダを食べて、ガールスカウトに行き、ピアノを習って、スポーツをして育った。だから面接でのこの問いには、「メキシコ料理の写真と、ソフトボールと、家族の写真です」と答えた。
私は日本人のような見た目とは裏腹に、中身は正真正銘アメリカ人である。幼いころから周りと違ったユニークさを大切にされてきた。自立的で、個人主義を主張し、多様性に寛容な私の性格はアメリカでは良しとされてきた。しかし日本では、アメリカにはない「社会からのプレッシャー」を感じるようになった。社会が自分を必要とするところでは、他人のために自分の時間を犠牲にするべきで、個人よりも集団コミュニティの利益を優先させるような場面に、日常的にでくわす。
私は日本に来て、内気で受け身になった。ちゃんとした日本人女性のようにふるまわないと周りの日本人からどう思われるかを恐れるようにもなってしまった。人生で初めて、自分の国籍が何なのかわからなくなってしまい、日系アメリカ人というアイデンティティはもう存在すらしないもののように感じた。私自身、日本に自分を重ねることができないので、自分のなかの日本人的な部分を抜ききるべきなんじゃないかとさえ思った。それなのに、ひとたびアメリカに帰れば、「私はアメリカ人です」と説明しただけでは不十分なわけである。
日本の文化を受け入れる

それから一年経って、私の日本語力が上達し、それまで難しかったことがそうではなくなった。小包を郵送したり、料金の支払いや、聞き間違えられることなく電話をかけることだってできるようになった。日本の社会にすっかり入り込むことだってできるし、外れることもできる。外国人としての自分と、日本人としての自分をうまく使い分けられるようになった。ただ、ここに至るまでの道のりや経験は大変なもので忘れがたく、日本語がわからず、日本社会に馴染めない自分を深く責めた。文化的に、私はこの先ずっと「日本人ローカル」にはなれないけれど、自分のこの曖昧なアイデンティティーを受け入れられるようになってきた。
日本文化を受け入れ、同時にアメリカ的価値観をなくさないでいるのは、不幸に見えて実はありがたいものだと思う。日本にルーツがある外国人として人生を操縦するのは、難解だがやりがいもあり、またその価値もある。しかしそれは、氷山の一角にすぎない。
おわりに
確かに彼女の言うように、あまり日本人日本人していない日系人というのは日本で馴染むのは難しいのかもしれない。はっきりと「日本人枠」に入れることもできないし、だからといって「外国人枠」に入るわけでもない。この”微妙さ”が、日系人をどのように扱うべきなのか混乱を招くのではないだろうか。その根底には、私たち日本人がどこかで人間は「日本人」と「外国人」を全くの別物として見ており、きちんと区別しないと何となく”気持ち悪い”という居心地の悪さに原因があるように思う。
しかし、この先グローバリゼーションにともなって、帰国子女やハーフ、日系人など、日本人とも外国人とも言えないような曖昧な立場にいる人が増えていくのではないだろうか。そうなると、変わらなければいけないのは区別したがる日本人の気質のほうかもしれない。