男女差別に関しては、ヨーロッパなどの欧米諸国は日本よりもずっと厳しい。フェミニストの活動も活発であり、女性雑誌を広げればその手の類の記事がいくらでも目に入る。しかし、この男女差別の概念が少し行き過ぎているのではないかと思うこともしばしば…。男女差別と男女区別の境界線というのは、国によってもその概念がことなるのではないのか。そう感じさせるニュースがスウェーデンから入った。
仏語サイトgentsideによると、ストックホルムの幼稚園“エガリア”では児童の性別を区別することを徹底的に禁止している。性差別を防ぐため、本やおもちゃ、色などによって男女を区別するものも全て廃止。さらに児童同士で“il(彼)”、“elle(彼女)”と呼び合うことがないように、教師は注意するよう学校側から指示されている。
例えば、配管工や電気工などの部外者が学校を訪れた場合、教師と児童はみな“une poule(メスドリ)”と呼びように指導されている。
米インターネット新聞Huffington Postの執筆者であるジョニー・ジョンソンさんはこう語る。
「かわいくて優しくて愛嬌のある女の子と、男らしくて荒っぽくて感じのいい男の子…。社会というのはこういった男女を求めています。しかし、“エガリア”では子どもたちに“なりたい人になればいい”と指導しているのです。これは子どもたちにとってとても素晴らしいことだと思います。
公立幼稚園である“エガリア”の男女区別徹底指導は、国の男女差別防止教育を試験的に行っているそうだ。男性ばかりに社会的権力が集中してしまう現代では、男女のバランスを回復することが教育機関の第一任務とされているため、今回のような指導が施されている。
しかしながら、男女区別の完全撲滅ともいえる教育がやりすぎではないかと疑う保護者も多く、心理学者も果たしてこれが最善策なのかと物議を醸している。カリフォルニア大学教授ジェイ・ベルスキーはこのように抗議している。
「この現象がエスカレートするとどうなるでしょう?男の子が好きなもの…走ったり、おもちゃの件で戦ったりという遊びはいずれ非難されるようになるのでしょうか。そうなると、これは性の中立化というよりも、オスの去勢になってしまうのでは。」
驚くべきことに、この幼稚園は今、入学申込みの問い合わせが殺到しており、この1年で学校の転校手続きをした家庭は1つだけとなっている。
「何においても大切なのは子どもたちが生物学的な男女違いを理解することであり、興味のあることやできることによって区別されないということです。」
そう語るのはエガリア校長のロタ=ラジン。
「これはデモクラシーなのです。市民平等の名において…。」
男女差別撤廃の動きは、今後“女性を守る”という名目の“男性去勢”が始まっていくのかもしれない。人種差別されるのはむしろ白人では、白人のアメリカ人は黒人よりも差別されていると感じていることわかったが、差別の元加害者が“差別されている”と感じる現象というのは、今後あらゆる場面で起こりうることである。
写真:Patrick
女性差別・男女平等を掲げる人達には、バランス感覚がありませんね・・。
これだって一部大人達の子供への価値観の押し付けだし、もっと自然に出来ないのかなと思います。
ご存じですか?
中学技術科の時間数が315時間から88時間に激減しています。
中学技術科は男子にとって体育に次ぐ人気科目ですが、今は技術科の代わりに家庭科を強制的にやらされています。
もともと技術科も家庭科も男女共通の選択必修科目でしたが、家庭科教師団体からの「家庭科の女子必修化」の要請や政治献金による政治家の買収に基づいて、1958年に中学で、1973年に高校で、家庭科が女子のみ必須になりました。
家庭科は家庭科教師団体が政治献金までして女子のみ必須にしたのですが、一部の女権団体が「女性差別」だと言い始め、小学生から高校まで家庭科を男女共に必修科目にされてしまいました。
この影響で、中学技術科の時間数が315時間から88時間に激減しました。ちなみに、小学校~高校までの家庭科の時間数は約300時間あります。
小中高の技術科の時間数:88時間
小中高の家庭科の時間数:300時間
何の罪もない男児に不利益な教育を喜んで実施できる。とても恐ろしいです。
こういうコメントにマイナス評価がある時点で
日本にも男性差別は存在するようですね。
寧ろ今の日本の方がその傾向は激しいのでは?
あと文中のオスの去勢という言葉はメスドリと言うセリフとある種の韻を踏んだ形ですが
もう少し言葉を選ぶべきですね。
日本人は同調圧力や出る杭は打たれる等の文化から
主張がしにくい(問題が表面化しにくい)だけです。
本当は皆、腹の中に黒い物を抱えて
社会に訴えたい怒りや不満を抱いている人間は多いと思います。
先のコメントと少し内容が被るのですが
女差別や男女平等と言う人間ほど差別的な発言や思考をしている様に感じます。
逆に差別的だと批判されている人は差別まがいな扱いを受けながら
相手には対等に接しようと努力しています。
どっちが差別でしょうか?
これが本当の平等でしょうか?
はっきり言って日本も他人事ではないですよ。