先日、日本のネットやテレビで何かと話題だったヨーロッパの日本好きオタクが集まる『ジャパンエキスポ』に行ってきた。(参照:【ジャパンエキスポ情報】完成度の高いヨーロッパのコスプレイヤーが集まる海外オタクの祭典がすごいことになっていた!)
会場は噂通りの大盛況でヨーロッパ中のマンガ&アニメ好きの若者でごった返していた。コスプレに身を包む外国人たちの姿を見て、日本発祥のものが本当に多くの若者に受け入れられ愛されているのだと改めて知り、驚くのと同時にとても感心した。もはや日本の文化であるアニメや漫画などが、他の国の若者にも愛され夢を与えているのだと実感し、おそらくあの会場にいた全ての日本人たちと同様、何とも誇り高い気分になった。
しかし、反面少し“怖い”気もした。
日本のアニメを称え、ひいては日本にも憧れを持つ外国人が『実際にどれだけ日本のことを理解しているのか?』という点が気になってしまうからだ。こんなことを言うと、読者の皆様は「アニメをきっかけに日本を好きになってくれるならいいじゃない」とか、「アニメ人気から日本への外国人観光客が日本経済も潤って良いこと尽くしでしょう」とか、「どんな文化であれ自国に興味を持ってもらえるだけでいいのでは?」とか、これを書きながらでも色んな意見が想像できる。
それはまさしくその通りで、筆者もアニメや漫画が大好きだし、日本を好きになってくれる外国人が増えれば増えるだけ、我々日本人にとっては利益の方が多いと思う。しかし私がここで“怖い”という表現を用いたのには理由があり、日本が他国と同様、“完璧な国ではない”ことに起因する。つまり、アニメや漫画、ゲームをきっかけに日本を好きになった外国の若者が現実の日本を知ってガッカリしてしまうのではないか、という懸念があるからだ。
持論では、ある国を“猛烈に”好きというのはある国を嫌うのと同じくらいの『勘違い行為』だと思う。国というのは、どこの国でも人間の個性と同様に良い面と悪い面が両方あり、その国を“好き”だの“嫌い”だのという言葉で表現すること自体が愚かなことではないか。好きだの嫌いだの言っているうちは、まだその国の本質が見抜けていないのではないかと思う。
ここでは日本好きの外国人を例に用いているが、反対にフランス好きの日本人にも同じことが言える。パリに住んでいると特にだが、たまにパリに恋しちゃっている日本人に遭遇する。雨が降り天候が悪くても「あぁこういう雨も何だかステキよね」と言い、「パリのカフェなんておしゃれすぎる!」という。気持ちはわからなくもないが、普段の日常をパリで暮らす人としては何だか笑っちゃう発言だ(平和でいいけどね)。パリはおしゃれで歴史が古く高級感がある街というイメージができあがっていて、それ以外の面は目に入ってこない。確かにパリはおしゃれな街だが、それだけでないのが現実で、“甘い”部分があれば“酸い”部分があるのは日本と同じである。
パリを好きなるのは結構だが、自分がイメージしていたパリと実際のパリには差があり、問題となるのはその差が大きすぎた時だ。
『パリ症候群』という言葉をご存じだろうか。これは憧れのパリで暮らし始めた日本人が、現地の習慣や文化などにうまく適応できずに精神的なバランスを崩し、鬱病に近い症状を訴える状態を指す精神医学用語である。この『パリ症候群』に発症する人が毎年いることがイメージと現実との間に大きなギャップがあることの危険性を物語っている。
日本のアニメイベントでコスプレをし、将来いつか日本に行きたいと願う外国人が世界中にいるという事実は大変結構なことである。
日本のマスコミもそういった海外での評価を日本人に伝え、それを見た日本人の心に自国愛や誇りが芽生えるのも大変結構なことだ。
ただそんな日本のアニメブームを違った角度から報道する必要もあるのではないのかと思う。
日本が大好きだと言い、自分もいつか日本に行きたいと言っている外国人というのは結婚をゴールと思っている独身女性に似ている。日本に行くことはゴールではないし、夢でもない。一番大切なのはそこから先で、アニメやコスプレ以外の“おもしろくない日本”をも受け入れられるかどうかが真の課題となってくるのだ。