KYという言葉がユーキャンの流行語大賞に選ばれてから5年。当時のように頻繁には使われなくなったものの、今だ日本社会における「空気読め論」は根強い。「空気を読む」に関しては、KYという言葉が誕生した頃から賛否両論が絶えないが、「空気を読む」という言葉自体が存在しない海外で生活していると、日本の「空気読め論」もあながち悪いことではないと思う。
集団主義社会のアジアとは違い、個人主義社会の欧米で暮らしていると、私たち日本人の常識では考えられないような、ビックリするほど空気が読めない人にたまに出会う。
これからみんなで楽しく飲もう!という時に苦労話を始めて盛り下げる人、カップルが真剣に別れ話をしている最中に割り込んで入って「DVD貸して」という人、大勢が集まるパーティーでいきなり怒りだし険悪なムードにする人…。
「おいおい、ちょっとは空気を読めよ!」と突っ込みたくなる場面は日本にいた頃よりもよくあるし、こんな時日本人同士なら場の空気を読んでくれるんじゃないか?と思ったりもする。空気を読むという行為が「自分の主張や都合を後回しにして他人の心情を思いやる」というのなら、それは人間的にも賞賛すべき行動だし、いちいち言われなくても『察する力』があるのが私たち日本人の良い点だとも思う。
しかし、「空気読め」という言葉自体は受け入れがたい。「空気読め」という批判が日本人のコミュニケーションをダメにすると思うからだ。
そもそも「空気読め」という言葉がない欧米社会では、上の例に挙げた「場の空気を読めない人」にどのように接するのだろうか。「空気が読めないこと」を批難する場合、何と言って注意するのだろうか。
欧米では「空気読めよ」という便利で曖昧な言葉がないため、例えば大勢が集まるパーティーでいきなり怒りだし険悪なムードにする人に対しては、「その話は後でしよう」と切り返したり、「何でそのことで今怒り出すんだ!」と逆ギレしたり、「今日はせっかくみんな集まったから楽しく過ごしたいんだ」と言って自分の気持ちを伝えたりする。
つまり、「空気読めよ」という批判はどれも他のフレーズに言い換えることができるわけだ。「空気読め」と言って個人を批判すれば、自分の考えや意向、思っていることを明確に言葉にする必要がないので、話者のコミュニケーションの怠慢とも言えなくはない。自分を含めた“周りの意向”を非常に曖昧な「空気」という言葉で表現し、空気にそぐわない個人へ責任転嫁しているだけの話である。「空気読めよ」と言ってしまえば、少数派である個人を批難することで話が終わってしまい、そこから先のコミュニケーションが生まれない。だいたい「空気読めよ」と注意すると「自分は多数派でお前は少数派なんだ」というニュアンスがあるが、自分が多数派であるという考え自体が思い込みだったりもする。
日本語という言語は、主語、動詞、目的語がはっきりしてないと会話にならない英語やフランス語と比べて、非常に曖昧な言語だ。しかし、曖昧な日本語を使うからこそ、私たち日本人はコミュニケーションに気をつけなければならないと思う。先ほど、いちいち言われなくても『察する力』があるのが日本人の良い点と述べたが、いつでも相手が『察してくれる』と期待するのは間違っていると思う。「察してくれる」というのは付加価値的なものであるべきで、基本的に人間同士がわかりあうには自分の考えをきちんと言葉にしなければならないと思うからだ。言わなくてもわかってくれるだろうと推し量るのは話者の怠慢であり、わかってくれなかったときに「空気読めよ」と批難するのは「私は全部人任せだ」と言っているのようなものだ。
第2に、「空気読め」という批判が日本人のコミュニケーションをダメにする理由として、日本人各個人の「異」への寛容さが失われるという危惧が挙げられる。
「空気読め論」反対派は「個性が失われる」と言うが、個性がどうのこうのという議論は抜きにしても、「空気読め」という言葉にはどうしても少数派排除のニュアンスが含まれてしまうのではないか。
ウィキペディアによると「場の空気」の定義は集団や個々人の心情・気分、あるいは集団の置かれている状況を表す言葉である。つまり、「空気読め」は空気(多数派)を読めない・わからない個人(少数派)を批判する言葉であり、人とは違った考えや行動をとる人を無条件かつ短絡的にダメなものだと決めつける言葉であると言える。少数派である「異」を排除するという発想自体は、子どもがやっているいじめと何ら変わりない。
それに、みんなが一様に同じような考え方や行動をとる国、社会というのはいかがなものかとも思う。みんなが右を向けば右を向き、左を向き始めたら左を向く。そんな人ばかりでは発想の転換もないし、ひいては成長もない。どこに行っても同じような人に出会い、同じような会話をする、そんな社会はおもしろくもなんともない。それに、天才と言われるニュートンやアインシュタインなどの科学者や発明家はみなある意味で、「空気読めない人」だったのではないだろうか。
相手を思いやる人間力は日本以外のどこに行っても重要。しかし、「空気を読まない」人こそがこれまでの世界を作り上げてきたのではないだろうか。
「空気読めよ」と批判している人こそ、本来なら批判されるべきだということにそろそろ気が付くべきだ。
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