先週は緊張に包まれた1週間だった。クリスマス気分が抜けない冬休み明けのビジネスマンや学生たちも、一気に休みボケが吹っ飛ぶ出来事だった。事件のあった先週の水曜日からパリは至る所に警察が配置され、ショッピングセンターやデパートの出入り口ではガードマンが手荷物の検査を行うなど、厳戒態勢が布かれた。 (ちなみにシャルリー・エブド新聞社が襲撃された1月7日は1月の第一週水曜日でフランスでは冬のバーゲン”ソルド”初日。例年この時期は多くの買い物客や観光客でパリ中が賑わうのだが、今年のソルドはどこのデパートも割と閑散としていた。)
人々の警戒心が最高点に達しているような物々しい雰囲気は穏やかではなく、先週一週間は常に何となく不安な気持ちで過ごした人が大半だと思う。 そのせいもあって、周りのフランス人や在仏日本人との会話もテロリストの話で持ちきりだった。反テロ運動のスローガンである「Je suis Charlie(私はシャルリー)」という文字を、パリ中の至る所で(普段は天気予報が表示される掲示板や広告の電子看板など)で目にするようになった。
しかし、日を追うごとに事件の報道や反テロ運動の熱が加速していき、今回の事件が少しエンターテイメント化してきたような気がする。最初は事件に衝撃を受けて、亡くなった被害者に同情していたが、次第にテロリストを話題にすることがある種の”流行”のようになってしまい、どのフランスのニュースを見ても上っ面な印象を受けるようになった。
テロリストVS言論の自由、テロリストは逃走ゆえに人質をとって立てこもる…といった映画のような展開を半分面白がっている人がいるような感じがしてしまうのは、筆者の性格がひねくれているからなのかもしれない。
今回の事件では「フランスはテロに屈せず、言論の自由を守るのだ!」と息巻いているが、これにも何となく違和感を抱いてしまう。言論の自由は当然守られるべきものだが、だからと言って何を書いても許されるというわけではない。筆者もこのブログを通してこれまで様々な主張をしてきたが、筆者が伝えたいことと読者が受け取る意味合いが違うこともあり、やはり”情報を発信する側の責任”として、言葉は慎重に選ぶべきだと改めて考えさせられた。

フランスのニュースなどの報道では言論の自由ばかり取り上げており、一部ではテロに屈しないシャルリー・エブド紙を”ヒーロー視”するような報道もあるが、これは少し違うように思う。表現の自由は守られるべきだが、書く側の責任にももう少し触れるべきである。自由ばかりが叫ばれ、責任が疎かになる国では穏やかで平和な社会だとは言えないのではないか。
自分が言うこと、書くことがどのように受けとられてしまうか、わからない。これは普段の生活の会話でもありえることだ。さらに、TwitterやFacebookで自分の発言が世界中の人に広まってしまう現代だからこそ、”書く側の責任”がより重大になってくるように思う。
ともあれ、あまりにもきついブラックジョークのため、これまでそこまで見向きもされなかった週刊新聞が世界中に知られるようになった。テロリストのおかげでシャルリー・エルボの売り上げが急増、ぶっちぎりのマーケティング効果をもった事件だったといえば、シャルリー・エブドのジョークと同様、何とも皮肉な話である。