ホーム国際人自分の国への誇りなんてなくったって、いいんじゃない?

自分の国への誇りなんてなくったって、いいんじゃない?

海外で生活していると、国籍や文化がいろいろと混ざっている人にたまに出会う。そんな人に出会って話を聞いてみると、「愛国心」って何なんだろう?と思うことが多い。

筆者の知り合いAはフランス人だが、父親がタイ人で、母親が日本人だ。フランスで生まれ育ち、フランス語はもちろん堪能だが、タイ語と日本語に加えて、両親は英語で会話していたこともあり、英語でのコミュニケーションもできる。子どもの頃から夏休みになれば、タイと日本を交互に行っていたため、両国の文化の理解も深い。

彼に「自分のアイデンティーはどこの国だと思う?」と聞いてみると、「僕は日本人でも、タイ人でもフランス人でもなく、インターナショナル人だ」と言われた。

イタリア人の友人Cは、ボルツァーノ出身だ。この地区はドイツ語を母語とするドイツ系住民が人口の半分以上を占めており、イタリアでありながらイタリア語話者は約25%と少数である。友人Cも母国語はドイツ語で、イタリア語もできるが、現在はカナダ人の彼女とロンドンに生活しているため、普段使う言語は英語だ。

彼にも同じ質問をしたが、答えは友人Aと似たようなものだった。「国籍はイタリアだけど、ローマの人の感覚とは明らかに違うし、母国語はドイツ語だけどドイツ人だとも思わない。結局どっちの国にも熱くなれないんだよね。」

筆者は生まれも育ちも100%日本人だが、この“何だか熱くなれない”感じというのは何かわかる。

オリンピックやワールドカップで自分の国を一生懸命に応援する人を、どこか冷めた目で見てしまう。

「日本が生んだ○○」という表現や、「日本人は素晴らしいですね」と自画自賛するテレビのコメンテーターの話を聞いて、体がかゆくなるような居心地の悪さを覚える。

フランスから一時帰国したときに、親戚に「やっぱり日本はいいでしょう?」と聞かれたときはとっさに空気に合わせた対応をしたが、内心では“褒めなきゃいけないプレッシャー”を感じて面倒臭かった。

「日本が嫌い」というわけではない。“日本だから”このように感じるのではなく、この居心地の悪さはフランス人に対しても感じている。

 

「今季オリンピックでフランスは金を○個とった!」と喜ぶ人を冷めた目で見てしまう。パリのサロン・ド・アグリカルチャー(農業見本市)に行ったときも、友人のフランス人に「フランスの牛は大きくて立派でしょう!」と言われて、正直面倒臭いと思ってしまった。「パリは日本人の憧れの街でしょ?」と言われたときは、何か反論したい気持ちになったし、「フランスは好き?」と聞かれるたびに、“褒めなきゃいけない”と思って緊張してしまう。

学生の頃、留学生の寮で生活していたときは、周りの留学生が「アメリカではここが凄いの!」、「イギリス人はこういういいものがある!」、「中国ではこれが普通だよ」と、毎日のようにいろんな留学生から代わる代わるお国自慢を聞かされて、辟易してしまった時期があった。

愛国心や母国への誇りなんて、あるだけ厄介で、面倒臭いだけだ。よく世間では、「日本人は愛国心が低い」と言うが、日本人は充分すぎるほど日本を溺愛しているように感じることもある。

こんな筆者はきっと世間からはズレているのかもしれない。日本で生まれて、日本の教育をうけ、お世話になっておきながら、愛国心がないなんてとても褒められたもんじゃないだろう。

しかし、「国に誇りをもつ」という感覚にはどうにも違和感がある。

例えば、松阪牛生産農家が手塩にかけて育てた松坂牛を誇りに思うのは理解できるが、三重県松阪市生まれの人が松坂牛を誇りにするのは何か違う気がする。ワールドカップで優勝した国の人が、まるで自分が優勝したかのように騒ぎ立てるのも何かおかしい。

日本に生まれるために何か努力をして、日本で育つことを選んだわけではないのに、日本に誇りを持つというのは理屈として成り立っていない気がする。そんなのは“誇り”ではなく、単なる“プライド”ではないだろうか。

プライドの高い人ほど面倒臭い人はいないように、国へのプライドなんて持っていても(海外で生活する人は特に)面倒なだけだ。

自分の国への誇りなんてなくったって、いいんじゃない?

日本人に限らず、ナショナリストや愛国心が強い人に会うと、プライドが高い人に会ったときと同じような面倒臭さを感じて、そう思ってしまう。

写真:Toshihiro Gamo

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