ホームワールドインドのスラム街、アグラの精神病院・孤児院を訪れて思ったこと【画像】

インドのスラム街、アグラの精神病院・孤児院を訪れて思ったこと【画像】

people here are crazy.

「この街の人間はクレイジーだからね。」

世界遺産のタージ・マハル廟やアーグラ城塞があることで知られる街、アグラに着いたとき、インド人運転手は言った。今年の夏、インドのラジャスタン地方を旅行したときのことである。

アグラはインドのウッタル・プラデーシュ州最大の都市で、2011年現在の人口は約157万人。インドの中でも最も観光客が多い都市のひとつだが、実はこの街の住民の50%以上が貧困層である。アグラには確認されているだけでも、スラム街(貧民街)が393箇所あるそうだ。

運転手の言葉通り、アグラに一歩入っただけで、ただものではない雰囲気を感じた。この街を初めて目にしたときの衝撃といったら、言葉ではとても表現できない。

インドの貧しい街、アグラの精神病院・孤児院を訪れて思ったこと

とにかく、どこを見ても、見渡す限り、汚かった。

そこらじゅうに様々なゴミが散乱しており、街全体がゴミ溜めのようだ。糞尿が泥と混ざり、その上を、人々が裸足で駆け回る。水溜りの地面をハイハイをしている赤ちゃんもいる。大人も子どもも、道端で用を済ます。その隣で、地べたに座り込んでご飯を作っている人もいれば、バケツに汲んだ濁った水で体を拭いている人もいる。ゴミ溜めの丘を登り、ゴミをあさる子どもたち。

自分がすっぽりと、ボットン便所の中に入ったかのような気分になった。

こんなに汚い街を私はこれまで見たことがない。目に入るもの全てがごみで、全てが汚く、全てが混沌としている。「秩序」や「きちんと」という言葉とは対極にある街。どんなことが起こってもおかしくない街。

薄汚れた泥色の背景をバックに、そこに住む動物や人間すらごみのように見えた。

インドの貧しい街、アグラの精神病院・孤児院を訪れて思ったこと

車の中にいる私たちを見て、満面の笑みで手を振るインド人の男性がいた。じっと、こちらを睨む者もいる。ゴミの丘のてっぺんで、こちらを向いて手を振りながら大便をしている子どももいた。

そんな人を車の窓から見るたび、インド人運転手は指先ながら、“They are mentally ill(彼らは精神的な病気なんだよ)”と説明してくれた。

インドの貧しい街、アグラの精神病院・孤児院を訪れて思ったこと

確かに、この街にいたら頭がおかしくなりそうだ。マズローの欲求5段階説の「生きていくために必要な最低限の生理的欲求」が満たされない暮らしというのは、人々の精神までもおかしくする。「貧困」の本当の恐ろしさは、健全な精神が壊されるところにあるのかもしれない。

しかも、皮肉なことにアグラという街自体は、インドの中でもどちらかというと裕福な街のはずである。2007年からの1年間で外国人観光客がタージマハル入場料に払った金額の総額は約3.3億円。しかし、インド人の話によると、この収益の全てが政府の役人の懐に納められるのだそうだ。

インドの貧しい街、アグラの精神病院・孤児院を訪れて思ったこと

それでもせっかくインドまで来たのだから、貧困に苦しむインド人のために、何かできることはないだろうか。

そう思った私たちは、アグラのはずれにある“Mother Teresa’s Missionaries of Charity(マザーテレサのミッショナリースオブチャリティ)”に行って、寄付をすることにした。

インドの貧しい街、アグラの精神病院・孤児院を訪れて思ったこと

ミッショナリースオブチャリティでは、アグラのスラム街で捨てられていた子どもや精神障害者を街で探してきては、世話をしている。孤児院と精神病院をかねた養護施設のようなものだそうだ。人懐っこくてかわいらしいシスターが太陽のような暖かい笑顔で出迎えてくれた。

インドの貧しい街、アグラの精神病院・孤児院を訪れて思ったこと

シスターはまず、子どもたちが勉強をする部屋を案内してくれた。「ハロー」と大きな声で挨拶をされ、明るい雰囲気。想像していた“孤児院”のイメージとは程遠く、拍子抜けしたほどだ。

インドの貧しい街、アグラの精神病院・孤児院を訪れて思ったこと

「この子は今週うちに来たのよ」

哺乳瓶をくわえたまま眠ってしまっている小さな赤ちゃんを指して、シスターは言った。この子も、あの汚いアグラの道端に捨てられていたそうだ。

インドの貧しい街、アグラの精神病院・孤児院を訪れて思ったこと

精神障害のある子どもの部屋に通された。席に着いた子どもたちに「ナマステー」と挨拶される。

写真には撮らなかったが、腕や足のない子どもや一人では起き上がれない障害を持った子どももいた。「この子たちもみんな捨てられたのよ」とシスターは訴えた。

インドの貧しい街、アグラの精神病院・孤児院を訪れて思ったこと

気がついたときには、もう涙がとまらなかった。

ここで保護された子どもたちがスラム街の道端に捨てられたときの状況を想像すると、苦しくていたたまれない気持ちになった。私も彼らも同じ人間なのに、どうして彼らはゴミのように捨てられなくちゃいけないのだろう。彼らが一体何をしたというのか。

インドの貧しい街、アグラの精神病院・孤児院を訪れて思ったこと

逆に私は、なんて贅沢な人間なんだろう。日本に生まれる。これだけでどんなに裕福なことだろうか。

インドで生まれ貧しさからゴミのように捨てられた彼らと、日本に生まれて当たり前のように大切に育てられた自分は何が違うというのだろうか。日本に生まれるために特別な努力をしたわけではなく、私が彼らよりも優れた人間であるわけでもなく、たまたま生まれた場所が良かっただけのこと。たった、それだけのことだ。

生まれた場所が違うだけで、こんなに不平等なことがあっていいのだろうか。

世界は不平等だと、貧しい国の話を聞くたびどこか他人事のように捉えていたが、このアグラの精神病院・孤児院を訪れて、人間の不平等さをまざまざと見せつけられた。月並みな表現だが本当にショックだった。

この孤児院で保護された子どもたちはまだ救われているが、誰にも助けられずに亡くなっていったインド人は一体どれくらいいるのだろう。

世界は平等ではない。当たり前のように毎日食事ができる先進国と、糞尿にまみれたところに子どもを捨てていく国がある。

しかし、人の命は平等であるべきだと思う。

シリアの内戦から逃れてヨーロッパにやってくる難民も、パリのテロで命からがら逃げられたフランス人も同じ命。バタクラン劇場で亡くなったフランス人も、シリアの空爆で亡くなった一般市民も同じ命。今年の2月にイスラム過激派に殺害された日本人人質の後藤健二さんの命も、戦争で亡くなった一般市民のシリア人の命も同じである。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と、福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭には書かれているが、心からそう思える人はほんの一握りなのかもしれない。世界のマスメディアの報道を見ていても、あまりに不平等すぎやしないか。

途上国の人間も、先進国の人間も等しく平等であるべきで、戦地の一人の命も、先進国の一人の命と同じくらい大切だ。

「難民は脅威だ」と冷たくあしらう世論を耳にするたびに、「あなたは難民の命よりも自分の命のほうが大切なのか」と問いたくなる。

「日本人の命のほうが大切だ」という人がいるなら、それこそ、「高慢の極み」ではなかろうか。

写真:マダムリリー

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