今、世界で一番差別にあっているのはイスラム教徒なのではないだろうか。
先日、フランスの地方で看護婦をしている友人(フランス人)がこんなことを言っているのを聞いて、耳を疑ってしまった。
この前、病院にイスラム教の夫婦が来てね。奥さんのほうはブルカ(テント状の黒い布で全身を覆うもの)を着ていて、旦那さんのほうはテレビに出てくるテロリストみたいにひげを生やした人でだったんだけど、心配だったから思わず体をいたわるふりをして全身を触ったの。武器を持っていないかチェックしたのよ。
この発言に対し、「もしかしたらブルカで武器を隠してテロをする人もいるかもしれない」と返したフランス人もいた。こんな会話はフランスでもほんの数年前まではあまりされなかった。しかし、最近はイスラム教徒に対する憎悪が高まってきているように感じる。みんな大きな声では言わないが、イスラム教に対する怒りや不満、恐怖がフランスじゅうを漂っているのだ。
イスラム恐怖症、通称イスラムフォビアという言葉を知っているだろうか。米国同時多発テロ後においてイスラム教や相手がイスラム教徒であるというだけで極度の恐怖や不安や嫌悪などの情動が発生してしまう症状のことであり、これが近年、ヨーロッパやアメリカで深刻化している。
最近では、差別の対象が“イスラム教徒”だけにとどまらず、ヒンドゥー教もシク教も無神論者も“南アジア出身に見える人”は全て差別の対象にされてしまうらしい。もはやイスラム教信者かどうかは関係なく、“それっぽく見える人”は全て、恐れられ、避けられ、嫌われるという現実に直面している。
ある論文によると、イスラムフォビアは全世界的にイスラム教徒の心の健康を脅かし、不安感やうつ症状を引き起こしているとされている。さらに、この研究では実際に差別されるような場面に遭遇しなくても、社会がイスラム教に対して恐怖心を抱いていると認知しているだけで、「イスラム教徒っぽく見える人」の精神の健康を脅かす原因になることがわかった。
周りの人に恐れられるのではないかと心配です。私が米国のパスポートを持っていることや、欧米的価値観を共有していることさえ、拒絶されてしまうのではないかと…。私の見た目や、ヒジャブという私の名字だけで判断されてしまうのではないか。罪のない人の命を奪ったイスラム過激派の人たちと同じように思われたり、多くのアメリカ人ムスリムの評価を曇らせてしまうのではないかと思うと不安でたまりません。 – Amara Majeed |

イスラムフォビアによる精神的なダメージは子供のころから始まり、大人になるまで続く。例えば、america.aljazeeraの2014年の記事によると、ターバンを巻くシク教徒の子供の3分の2が学校でいじめられており、シク教の子供全体の50%はいじめられた経験があると答えている。これはアメリカ全体のいじめ被害件数平均の倍である。
アメリカで育ったシク教の女性Gunita Kaurは、彼女が9歳のころから差別が始まったと言っている。
シク教徒がアメリカという国で嫌悪の対象にされることに気が付き始めたのは、私が9歳の時でした。アメリカの同時多発テロがあった当時、私たち家族はニュージャージー州に住んでいましたが、9/11の直後、テロで亡くなった方の冥福を祈るためにグラウンド・ゼロ(WTCの跡地)を訪れました。 その時のことで私が一番覚えていることは、人々の私の父に対する非難の目です。父は私のヒーローであり、友でもある人です。世の中にたくさん貢献してきた人なのに、父が頭に巻いているターバンにネガティブで猜疑的な視線が集まる理由なんてありません。 このときは、胸の中にいろんな感情が沸いてきたの覚えています。困惑―なぜその場にいた人たちはよく知りもしない父のことを勝手に判断する権利があるのかという困惑。怒り―一見無害に思える非難の目が嫌気や差別、根拠のない憎悪を表していると気が付いたから。悲しみ―9歳の私でも、不寛容さや無知などに打ち勝つのは難しいと悟ったから。 |
彼女が言うように無知や不寛容さが、イスラムフォビアの根底にある原因とするならば、イスラム教徒の数が少ない日本に住む人たちは危ないのではないか。これまでイスラム教徒と会ったことがないという人が大半という日本人は、イスラム教徒に対するイメージがメディアが報道する一方向的な像のみによってつくられてしまいやすい。自分でも気が付かない無意識のうちに「イスラムに対する嫌悪感」をつくってしまい、実際にイスラム教徒に出会う機会があるときに、非難の目をぶつける“世間”の一部になってしまうのではないだろうか。
イスラム過激派とマスコミ、政治家が一緒になってイスラム教徒のネガティブキャンペーンをするのと同程度に、「イスラム教はすばらしい」という宣伝もしていかなくてはいけないのではないかと思う。
宗教に対する寛容さというのは、日本人が得意とするところだ。イスラム教徒に非難の目が集まる今こそ、私たち日本人の宗教に対する寛容さが何よりも重要になる精神ではないかと思う。
また、本当の意味での「寛容さ」というのは、神社も参りクリスマスも祝うような、楽しそうなところに飛びつくことを言うのではなく、我々の価値観や習慣と全く異なる宗教を持った人に対しても、また世界で偏見の目にさらされている宗教の人に対しても、それを認め、理解しようと努めるところにあるのではないだろうか。
世界中の人がそんなふうに考えられるのなら、イスラムフォビアなんて言葉はすぐにでも過去の遺物になるだろう。
参照:huffingtonpost.com、写真:Hani Amir